<聖と俗>No.16

「聖」…「けがれなく尊い。崇高で犯しがたいこと」
「俗」…「一般的なありきたりの。程度が低く卑しいこと」
国語辞典で引くと上記のような説明である。

西洋占星学では、ダブルサインと呼ばれ2つの意味を同時に併せ持つ星座が3つある。双子座、射手座、魚座の3つでギリシャ神話からなる星座としての姿から2つの意味が込められてきたものである。(詳しくはHP本文星座参照)
双子座は「二重性」を持ち、感覚が2つで1つである。神話では、カストル(兄)とポルックス(弟)という母親違い(父親はゼウス)の兄弟でポルックスは神の血を受け継ぎ不死身であるが、カストルは人間であった。
双子座対中の射手座は、上半身が「人間」で、下半身が「馬」であるケンタウルス族である。射手座は「人間の知性」と「馬の本能」を同時に発揮する。
魚座はリボンに繋がれた2匹の魚である。その正体は、愛の女神アフロディテとその息子エロスである。
魚座は、「聖」と「俗」を併せ持つ12星座最後の愛情豊かなサインである。

「聖」と「俗」…
この世のすべての「陰」と「陽」のように「聖」と「俗」もまた陰陽関係にあるのか…
<日月神示と五感の上昇>にも思いを込めたつもりであるが、人の喜びは「俗」的なものに多い。だが誰でも「聖」を目指す心も同時に持っているのである。
「聖」と「俗」について少し書きたいのだが文章に表わすのはとても難しい。
私の中で答えの出ていないところも多く、いつもより難しい話しを書きたいと思う。一緒に考えてみて下さい。

「聖」なる状態とは…?
世俗を捨て、滝に打たれて修行すると「聖」なる状態になれるのであろうか?
通常の生活を送りながらも、「聖」なる状態に近づいているときは…?
「物欲」が薄れて無くなり、常に人や物事に「思いやり」を持って接し「感謝」するのが当たり前になる。
それでも家族など愛する人たちがいて、愛する人には会いたいと思う。例え愛する人と一緒にいられなくても、愛を持って「平常」で生きてゆける状態をも目指す。
「平常」であるとは、5つのネガティブ因子(不安、不満、憎しみ、妬み、咎め)のない調和の取れた状態である。
現在に生きる「聖」なる状態であろうか…?

そしてさらに、個別な愛に対する執着もなくなり、「男性」性も「女性」性も希薄になり、地球や宇宙と同化していく… 究極の「聖」なのか…?
「男」と「女」がなくなったら、つまらないと思うのだが…それは「俗」に属するのか…

神仏には性別が少ないと言う。地球の神仏は元「人」であった場合もあるし、今は地球に存在しているが「他の宇宙からの存在」である場合もある。そういったご存在たちは「聖」なる存在である。私たち「人」も皆実は、神「御魂」を有しているので「聖」なる存在なのである。
「人」が次元上昇していく究極のスピリチュアリティは、地球や宇宙との同化、高次元なエネルギー(神仏)と同化できるような「心」(愛)と「体」を目指すことなのであろうか・・・?

初めの一歩は、「受容」から始まる。自分に降りかかった物事に対してすべて「受容」するのだ。どんなに理不尽に思える出来事でも、受け止めて「不安」「不満」「憎しみ」「妬み」「咎め」(ネガティブ5因子)が発生しなければ完璧な「受容」となる。
「聖」なる「心」に一歩前進である。しかし「受容」は受身な考え方である。この世は、受身でばかりでは成り立たないし、上昇できない。

「俗」とは…
俗事に対しては、「人」は能動的である。それは「欲」となって現れる。
「味覚」を満足させる美味しいものを食べたいという「欲」、「視覚」を満足させる「物」には数限りなく、「感覚」を満たす最たるものはSEXであろう。
音楽好きの私は常に「聴覚」を満たして生活している。
この世がどうなっているのか知りたいと思うのも知識の「欲」であろうし、「欲」=「願望」がなければ「人」は進化しない…
俗事はこの世に溢れ、喜び、楽しみ、面白さを生み、「幸福感」へと繋がっていく。

しかし「聖」なる状態と比べてしまうと「次元が低い」となるのであろうか…?
それなら現在の地球では、「聖」と「俗」は陰陽関係にあるのではないだろうか…

「五感」が上昇して「人」の楽しみ、喜び、面白みのあり方が変わっても「求める」能動的な力は存在しているであろう。
「受容」とのバランスをとりつつ「人」は進化していくのであろうか…
この感覚が最近少し、解ってきたように思うが…
「不安」「不満」「憎しみ」「妬み」「咎め」(ネガティブ5因子)のない「聖」なる生活を心がけつつ、時に思いっきり「俗」に走る。
「聖」と「俗」の感覚は果たして表裏一体(陰陽関係)なのか思案中である。