<三国志 レッドクリフ 清と濁>No.19

お正月早々、Mちゃんと映画「レッドクリフ パート1」を観にいった。
漫画家故横山光輝氏(1934年6月18日双子座生)の作品「三国志」(単行本60巻)を弟に借りて読んだのは、もう20年近く前だろうか・・・
『横山光輝氏の「三国志」は、吉川英治氏の小説「三国志」を元に独自の解釈等を織り交ぜて描かれた作品。吉川英治氏の「三国志」が諸葛亮孔明の死で終わっているのに対して、本作は「蜀」が滅亡するまでを描いている』(wikipedaiより)
漫画とはいえ60巻もあり、内容が濃く読み応え充分である。
「三国志」は、西暦220年頃の中国、「蜀」、「魏」、「呉」の三国の三つ巴のお話である。
万里の長城を築いた「秦」の始皇帝が紀元前221年であるから、その約440年後ということになる。

今でも覚えている好きな登場人物は、「趙雲子龍」(ちょううんしりゅう)と「姜維」(きょうい)である。「趙雲」は、映画「レッドクリフ」でも私のイメージそのままで、真の武士であり、肝っ玉の大きいイイ男である。横山氏の「三国志」では、6巻から53巻まで登場する。一方「姜維」は、50巻から60巻に登場する後半の英雄で、こちらも文武両道のイイ男である。

三国志の君主、「劉備」、「曹操」、「孫権」のファンも多いだろうし、「劉備玄徳」と義兄弟で有名な「関羽」と「長飛」、中国史上最高の軍師である「諸葛亮孔明」は今でも男性陣の支持を一番に得ているだろう。
「周瑜」(しゅうゆ)もイイ男であり、映画「レッドクリフ」ではトニー・レオンが演じているが、肝っ玉の大きさが、「趙雲」「姜維」に敵わない。

故李學仁氏と王欣太氏の共同作品である漫画「蒼天航路」(1994年〜2005年、講談社漫画賞受賞)は、「三国志」の「曹操」を主人公に描かれていている。
「蒼天航路」の「曹操」は稀代の猛勇であり、イイ男なのである。
映画「レッドクリフ」の「曹操」は「乱世の奸雄」と呼ばれ、悪役である。
日本の歴史を紐解いても同じことが言えるが、歴史とは見る角度を変えると、見える「色」が違うということである。(ただ一方の「色」しか見えない人もいるが・・・)

それらすべては「善」と「悪」ではなく「清」と「濁」の中にあるということだ。
「大義や義理人情のために戦う」要素は私にとって「清濁」の「清」であった。
だが、近年、読めない作品が出てきた。
「蒼天航路」も「墨攻」(始皇帝より前の戦国時代のお話)も「あずみ」(小山ゆう氏作品、徳川幕府初期、凄腕の美少女剣士のお話)も読めなくなってしまった。
歴史が題材のものは人類そのものの生々しさがあり、その残忍さに耐えられなくなったのである。

「ロード・オブ・ザ・リングス」は、イギリスのJ・R・R・トールキン氏(1892年山羊座生)の小説をピーター・ジャクソン監督(1961年蠍座生)が凝りに凝って、2001年、2002年、2003年と3部作で映画化した。小説「ロード・オブ・ザ・リングス」を読んだのはまだ10代の頃だった。
映画は、SF映画とファンタジーが一番好きである。
生々しさが架空であるので安心できて、自由な縦横無尽の世界であるからだ。

「ロード・オブ・ザ・リングス」はファンタジーでありながら、非常に現実的で複雑なこの世が見事に描かれていた。最終作「王の帰還」で、人間の王国ゴンドールを救済に来たもう一つの王国ローハン軍が圧倒的不利な状況の中、オークの群生に攻め込む前、声高らかに「DEATH!」(日本語訳では、「われらに死を!」)と何度も叫ぶシーンは涙なくして凝視できない。
日本の戦国時代にも圧倒的不利な状況下、死を覚悟の似たような場面が実際にあったことだろう。こんなときに堪えられない「涙」が溢れるがこの「涙」は熱く清く乾いているのだ。
私にとっての戦国ものの「清」とはこの感覚なのである。

戦国ものの登場人物で一番愛しているのは、漫画「花の慶次 雲のかなたに」(故隆慶一郎氏小説「一夢庵風流記」を原哲夫氏が漫画化 1989年〜1993年作品)の主人公、天下一の傾奇者(かぶきもの)前田慶次郎利益である。
私にとって、彼はまさに理想の殿方(男性)であり、究極の「色即是空、空即是色」な生き方を素でしているあこがれの存在である。
そして忘れてはならないのがゴルゴ様だ。
「ゴルゴ13」は、殺しのシーンというより、その背景や心情の描写が多く、今でも愛読できるただ1つの漫画である。

昔の戦国ものの漫画や映画の中に「清濁」の「清」を見つけて感動してきた。
それらは時代が時代なだけに解りやすい真の「勇気」に通じる感情であったからだ。
しかし現代、複雑に進化した文明と見えない三次元権力が「清濁」の区別をつきにくくしている。
今日の暗いニュースの中に「清濁」の「清」を見つけることはできない。
「人」は「魂」の段階において、「清濁」を感じるところが違ってくる。
そして「人」は自らに託された究極の選択権において、自分の人生の「清濁」の加減を選べるのである。
「清濁」の加減が同じもの同士が同じ波長なのかもしれない。