<願うこと>No.69

「願望」と「欲望」の違いに関して以前にも書いた。
だが、本当の「願い」とはどういう境地なのか…
人は何故、転生を繰り返すのであろうか…
根本原理に、魂の成長があるからである。
では、この世に生まれて現実世界で生き抜く上では、何が目的になっているのだろう…
それは、人それぞれの幸福の成就である。
「幸福の成就」が「魂の成長」になっているかは別であるが、魂が成長していかないと、真の幸福は手に入らない。

初詣をされて神さまにいろいろなことを祈願された方も多いだろう。
本当はただ「お願い致します」だけで、その「願い」が正しいものなら叶うはずである。ここでいう正しいものとは、天地自然の道理(宇宙システム)に適っているものである。
「願い」とは到達地点だけであるのが理想であって、その過程を願うことはエゴになることが多い。

自分のことの場合、余裕もなく問題が起こっているときは、
「ああ、なんとか今の状況を無難に切り抜けられますように」と願う。
「細かく、なになにが、こうこうなって…」と具体的に願ったとしても、通じるものは通じるし、エゴあるものは通じない。
エゴ的な願いだと、自然の摂理で自分にそのエネルギー(念)が、返ってくる。何がエゴで何が自然の道理なのか、実はとても難しい。

ある人の幸せを願ったとしよう。
「その人が幸せでありますように…」
「その人が穏やかでありますように…」
「その人が健康でありますように…」

でももし、その人があなたから見て思わしくない状況や行動を取っていたとする。
「なんであんな人と付き合うのだろう、なんでそんな仕事をまだ続けているのだろう」
「あんな人と縁が切れますように…、その仕事を辞めますように…」
この願い方はエゴになる。
どんなにその人がおかしな状況にあっても、その人の人間関係や仕事を指図することは、してはいけない(願ってはいけない)ことなのである。
今その時点で、その人間関係とその仕事を選んでいるのは本人だから、本人の人生は本人のものとして切り離して考えなければならない。その上での「願い」なのである。

でも逆に何の「願い」もなかったら、この世に生きている意味がない。
「願い」を発することは、魂の成長を促し、個性という「色」を持ってこの次元を生きていく上で必要なことである。
スケールの大きいことを願って、もし「お願いします」だけであったら、今の肉体で生きているこの転生期間が、その「願い」成就の可能性期間かもしれない。
それでは長いと感じる。
だから、ある程度は具体的にエゴにならないように、願いたい。

日常の小さな偶然は、無意識に発した願いが成就していることが多い。
これこそ、身近な神仕組みである。
例えば、私の場合「大きなイチゴが食べたいなぁ」と思っているとお客さまがイチゴを手土産に持ってきてくれたりする。
イチゴに執着があったわけでもないが、イチゴを食べたいという願いがあったからで、小さな願いの成就(共時性)も同じ神仕組みの中にあるのだ。

誰か固有の神さまがいて「そうか、そうか、イチゴを食べさせてあげよう」と計らいをしてくれたのかもしれない。
だがもっと科学的に考えると、私の「願い」のエネルギー(色や質などを持つ念)が正しい流れ(気)に乗って、親切な相手の意識に届いたからである。
この正しい流れ(気)が天地自然の道理であり、「神さま」と呼ばれる場合もあるのではないだろうか…
身近な神さまが、自然現象の働きがお名前になっていることが多いのはそのせいなのだと思う。

「願い」を正しい流れ(天地自然の道理)に乗せるのが難しいのだ。
エゴ(欲)が過ぎると流れに乗らないで跳ね返ってくるか、余計なものを拾って違うエネルギーに変わったりする。そういった(負)のエネルギーが凝り固まると大きな事故などの霊障を招く。
人の勝手な想いで穢れてしまっている神社や神さまも多いと聞く。
変容してしまった神さまはその代表であろう。神社の近くで事故など起きても神さまは護りきれないのだ。

「穢れ」を取るのは「感謝」と「お詫び」の気持ちである。
純粋な「感謝」と「お詫び」(反省)の気持ちが神仏とともに浄化を促す。
この世に生きていることに「感謝」と「お詫び」の気持ちを持って「願い」を発しよう。
あなただけの「色」を持つ「願い」が正しく届きますように…